昭和33年(1958)の航空写真で姪浜炭鉱と内浜の様子を見てみましょう。姪浜炭鉱の閉山は昭和37年です。
*写真中の袙の浜は、神功皇后が上陸した際、袙(下着)を洗ったという伝説があり、姪浜の名の由来となった。
昭和33年(1958)の航空写真で姪浜炭鉱と内浜の様子を見てみましょう。姪浜炭鉱の閉山は昭和37年です。
*写真中の袙の浜は、神功皇后が上陸した際、袙(下着)を洗ったという伝説があり、姪浜の名の由来となった。
姪浜炭鉱(早良炭鉱)の歩みと内浜 その2
福岡市とその近郊には姪浜炭鉱以外にも中小の炭鉱が存在した。
糟屋炭田の志免鉱業所は、唯一の国営として、海軍・国鉄の燃料用として採炭した。昭和39年(1964)閉山。国指定重要文化財の竪坑櫓は、深さ430mまでケージを昇降させた高さ47.6mの巨大なビルで、九州自動車道からも見える。
糟屋炭田には、三菱勝田炭鉱(宇美町)、月隈(下月隈)、府内筑紫(東平尾)、蒲田(多々良村)、本香椎(多々良村)があり、宇美線、勝田線、香椎線で西戸崎まで輸送されて船積みされた。
福岡炭田には、大正時代に鳥飼・麁原炭鉱、昭和20年代~昭和33年頃、福豊炭鉱(現田島2丁目住宅地)・田島炭鉱(現マイマイスクールとイオン)が操業していた。
3月26日(土)に福岡市の5つの公民館をオンラインでつないで行った事業「ブラこうみんかん」で内浜公民館が発表した“姪浜炭鉱”の内容を紹介していきます。
姪浜炭鉱(早良炭鉱)の歩みと内浜 その1
唐津街道の宿場町、漁師町だった姪浜に炭鉱があったことを多くの人が知らない。そこで、姪浜炭鉱の設立から閉山までの歩みとその後の出来事を振り返ってみたい。
創始者葉室豊吉、明治18年に炭層を発見
大正 3年(1914)姪濱炭鑛設立、1万トンを出炭
大正 7年(1918)米騒動でストライキ 当時の出炭量21万トン
昭和 4年(1929)早良炭鑛に名称変更
昭和11年(1936)炭坑労働者2250人、家族を含めて約8千人
出炭量は約32万トン
昭和17年(1942)坑内爆発事故で死者36名
昭和18年(1943)中山悦治(中山製鋼所)による経営立て直し
昭和20年(1945)福岡大空襲と台風で坑内水没→復旧へ
昭和24年(1949)炭坑労働者ストライキ
昭和37年(1962)エネルギー革命により閉山
昭和35年の出炭量は約24万5千トン
ちなみに、平成9年(1997)に閉山した三井三池炭鉱の昭和45年(1970)の出炭量は657万トン。
令和4年度サークル合同開講式を行い、公民館事業やサークル活動についてお話しをしました。続いての人権学習では、人権教育推進員の河原先生が、“サークル活動と人権”と題して「サークル活動を日々行うことが、人権啓発に役に立っています」という話をされました。