2022年4月6日水曜日

ブラこうみんかん(その3)

 姪浜炭鉱(早良炭鉱)の歩みと内浜 その3

昭和33年(1958)の航空写真で姪浜炭鉱と内浜の様子を見てみましょう。姪浜炭鉱の閉山は昭和37年です。

赤枠が現在の内浜校区(ほとんどが田畑)
昭和34年開校予定の内浜小
②陥落池の西区役所建設予定地
③葉室豊吉翁頌功碑(愛宕山
④鉱害復旧土地改良記念碑(岩見ホルモン店東)

*写真中の(あこめ)の浜は、神功皇后が上陸した際、(あこめ)(下着)を洗ったという伝説があり、姪浜の名の由来となった。

小戸の炭鉱住宅
現在はホームセンター等の商用地や住宅

石炭を運んだ北筑軌道運炭専用線(大正時代)通称「炭車道」

運炭専用線の経路を辿ってみましょう。

鳥飼炭鉱(鳥飼小学校)→鹿原炭鉱(祖原公園南の住宅)→紅葉山の南から藤崎→旧電車道に合流して室見川を渡り竹の山→姪浜ドライビングスクール北側→内浜小学校北側道路→名柄川を渡り現在の小戸団地の中央から二坑桟橋へ

運炭線が通ってた内浜小学校北側道路

二坑桟橋(長さ約218m)

石炭の積み出し

昭和30年代 姪浜炭鉱第二坑全景
二坑跡地にある水処理センターと㈱サワライズの工場