3月26日(土)に福岡市の5つの公民館をオンラインでつないで行った事業「ブラこうみんかん」で内浜公民館が発表した“姪浜炭鉱”の内容を紹介していきます。
姪浜炭鉱(早良炭鉱)の歩みと内浜 その1
唐津街道の宿場町、漁師町だった姪浜に炭鉱があったことを多くの人が知らない。そこで、姪浜炭鉱の設立から閉山までの歩みとその後の出来事を振り返ってみたい。
創始者葉室豊吉、明治18年に炭層を発見
大正 3年(1914)姪濱炭鑛設立、1万トンを出炭
大正 7年(1918)米騒動でストライキ 当時の出炭量21万トン
昭和 4年(1929)早良炭鑛に名称変更
昭和11年(1936)炭坑労働者2250人、家族を含めて約8千人
出炭量は約32万トン
昭和17年(1942)坑内爆発事故で死者36名
昭和18年(1943)中山悦治(中山製鋼所)による経営立て直し
昭和20年(1945)福岡大空襲と台風で坑内水没→復旧へ
昭和24年(1949)炭坑労働者ストライキ
昭和37年(1962)エネルギー革命により閉山
昭和35年の出炭量は約24万5千トン
ちなみに、平成9年(1997)に閉山した三井三池炭鉱の昭和45年(1970)の出炭量は657万トン。
愛宕山の大山祇神社跡公園に立つ葉室豊吉頌功碑
(1853~1930)
大正4年建碑 高さ3m